近江八幡 里山ハイキング コースガイド

近江八幡の歴史と景観

近江八幡の歴史と景観

1582年(天正10年)、本能寺の変により織田信長が没し、豊臣秀吉が天下人となります。秀吉の甥で後に摂政関白となる豊臣秀次が18歳のとき、この地に八幡山城を築城、信長の安土から町割りをそっくり移転し、楽市楽座の自由な経済制度もあわせて持ち込みました。今でもその名残りが町名として残り、大工町・鍛冶屋町・博労町・鉄砲町・畳屋町・魚屋町・薬師町・仲屋町などが町中にあります。また八幡堀を開いて、琵琶湖からの海運をこの堀割に立ち寄らせたため、三十石舟が行き交い、堀の両側には蔵屋敷が立ち並び、大いに賑わいました。

江戸時代には八幡に本宅を構え、江戸日本橋に本店を構える八幡商人も多数出現し、今も新町通りにある屋敷群には《見越しの松》や《うだつ》が見受けられます。

時は移って2006(平成18)年には、この八幡堀や西の湖、円山・白王地区の水郷地帯が国の重要文化的景観の全国第一号に選定され、水郷の豊かな自然環境が改めて評価を受けました。

また堀の底面をさらう際に出たヘドロを利用して瓦を焼き、八幡瓦として名をはせました。今も八幡山から旧市街地を展望すると、甍(いらか)が立ち並び日本的な風景が味わえます。特筆すべきは公共建築物(病院・小学校・消防署・図書館・公民館・霊園など)にも瓦屋根が使用され、近江八幡の町家の景観を守る姿勢をうかがうことができます。

1933(昭和8)年に建築された旧八幡郵便局も、その当時では最先端の建築物であったため、洋館作りに八幡瓦を採用しており、町の一体感を意識したヴォーリズの配慮を見ることができます。

近江商人の街「近江八幡」

近江商人とは近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称で、個別には「高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人」などと呼ばれ、それぞれ特定の地域から発祥し、活躍した場所や取り扱う商品にも様々な違いがあります。八幡商人たちは、秀次没後まもなく天領となった近江八幡の町から、天秤棒を肩に全国に活動を広げます。北は北海道から南は安南(ベトナム)やシャム(タイ)まで進出し、当時まだ発展途上であった江戸にもいち早く店を出しました。彼らは、買い手よし、売り手よし、世間よし、という三方よしの理念を商売の基本とし、自ら利益のみを追求することなく、社会事業に大きく寄与しました。八幡商人たちが残した財産は、形に残るものばかりでなく、むしろ、その精神に大きな価値があるといえます。

新町通り

舟板塀や土蔵、旧家が立ち並び、近江商人の栄華の繁栄を今にとどめています。当時の暮らしを伺い知ることが出来る歴史資料館や旧西川邸などもあります。

八幡堀

立ち並ぶ白壁の土蔵、ゆるやかな水の流れ、水面に映る柳の緑。古くは商用の運河として栄え、今は市民の安らぎの場として静かなたたずまいを見せています。
八幡掘は1585年(天正13年)に豊臣秀次が八幡山に城を築き、開町したことに始まります。秀次は八幡掘と琵琶湖をつなぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、モノ、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました。
高度成長期に入ると、生活形態の変化などにより八幡掘の荒廃が進みました。しかしながら、近江八幡青年会議所をはじめとする市民の熱心な活動の結果、八幡掘は現在の姿まで回復しました。
現在も八幡掘を守る会、観光物産協会、地元自治会等の各種団体が清掃活動を続けています。まさに「八幡掘」は近江八幡のまちづくりのシンボルといえます。

ヴォーリズ建築

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、近江八幡の地を足掛かりにして、人々の信仰の大切さを説くとともに、建築家として約1,500件にものぼる建築設計を手がけました。結核に苦しむ人々を救う療養所(現:ヴォーリズ記念病院)を建設、メンソレータム(現:メンターム)の医薬品事業を経営し、妻の一柳満喜子氏とともに最先端の学校教育を実践しました。「近江八幡は世界の中心」と謳い、近江八幡の地を心から愛し、近江八幡市民からも慕われたヴォーリズは、近江八幡市民名誉市民第1号となり、その精神は、今もなお、市民から愛され続けています。
ヴォーリズ記念病院は八幡山の山麓にあります。ヴォーリズ合名会社で勤務していた遠藤観隆が、肺結核で亡くなったことが大きな要因となり、サナトリウム(結核療養院)として開院しました。琵琶湖にも近く、緑があふれていて、療養するには最適の場所でした。建設のための資金は米国の支援者A・Dツッカーからの寄付金でまかなわれました。幾度もの増改築で、取り壊しになった建物もありますが、1971年(昭和46年)に現在の名称「ヴォーリズ記念病院」と改称され、総合的な医療や介護にも対応できる医療・福祉施設となっています。今では、大きな病棟が建っていますが、旧本館は昔と変わらずシンボルであり病院の顔となっています。

伝統的歴史景観第1号の景観

1991年4月30日に滋賀県内では初となる国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。選定地域は新町筋、八幡堀周辺、永原町筋、日牟禮八幡宮境内地を加えた131.1ヘクタールになります。保存地区内の特徴としては、切妻造桟瓦葺、平入の木造建築が基本となっています。正面の構えは格子、出格子、虫籠窓からなり、道路に面する庭に見越しの松を配し、緑を取り込んで景観に安らぎを与えています。近江八幡では中二階建が多く、貫見せ(軒下の壁に貫を見せる)は、他に例の少ない独特の意匠と言われています。

3月14日~15日に近い土日
左義長まつり(宮内町 日牟禮八幡宮)
4月14日~15日
八幡まつり(宮内町 日牟禮八幡宮)
5月4日
篠田(しのだ)の花火(上田町 篠田神社)
5月6日頃
足伏(あしふせ)の走馬(そうめ)(加茂町 賀茂神社)

水郷風景・日本の里百選「白王・円山」

近江八幡の水郷は、滋賀県近江八幡市に位置する西の湖を中心とした水郷景観です。文化財保護法改正により創設された重要文化的景観制度の第一号として2006(平成18)年に国の選定を受けました。現在、公有水面、ヨシ地、集落、農地、里山を含む約354.0ヘクタールが「近江八幡の水郷」として選定地域となっています。

かつて、琵琶湖沿岸にはクリーク状(水域が陸地に入り込んでいる地形)の飛び地になった水田が広がり、小さな手漕ぎ舟が農作業や日常生活の足として往来していました。また、湖岸に広がるヨシ帯は、鳥や魚などの生活の場となり、湖の水質を浄化するとともに、よしずや屋根等の材料として人々の生活に活用されていました。時代が変わって、ほとんどの田んぼは区画整理されて陸地化し、ヨシ産業も安い中国産に押されて衰退してしまいましたが、琵琶湖東岸に位置する近江八幡の「白王・円山」地区を中心とした水郷地帯には、今なお、舟でしか行けない田んぼで耕作したり、ヨシを生産加工するなつかしい風景が息づいています。